二日酔いの朝、鍋の中のカワハギの頭と眼が合う。
思わず吹き出しそうになる。
二日酔いになるたびに「俺の人生はすべてにおいて間違えてばかりだ」という暗澹たる気分に落ち込むのだが、鍋の中のカワハギを見ていたら少しだけ元気が出た。

なんて顔をしているのだ、お前は。
そんなおちょぼ口でこっちを見るんじゃないよ。

前夜、このカワハギを捌いて刺身を肝醤油で食べた。
そのせいで日本酒を飲みすぎてしまった。
「つまり、この二日酔いはお前のせいだ」と思いながら、いろんな魚の余った部分をぶち込んだ、アラ汁の入った鍋を火にかける。
魚の出汁と味噌の混ざった香りが台所に充満して、死にかけの胃袋を少しずつ刺激する。
戌井昭人『まずいスープ』

戌井昭人・著『まずいスープ』という俺の好きな小説がある。
主人公の父親が、ある日失踪するところから物語は始まる。
父親は失踪直前、自宅の台所で、アメ横で買ってきた魚介類をぶちこんだスープを作っていた。『沼みたい』な、恐ろしくまずいスープだった。
そしてそれを機に、アル中になった母親、非行少女の従姉妹、定職にもつかずプラプラしている主人公…失踪癖のある父に負けじとクセの強い一家の絶妙に保たれていたバランスは、少しずつ崩れていく。
そんな滑稽な物語、というか喜劇である。
父親が残していったまずいスープは、まるでアンバランスな家族のメタファー(使ってみたかった言葉!)だ。
『驕り』がスープをまずくする?

雑多な魚介類をぶち込んだスープをまずく作るのは、むしろ難しい作業だと思う。
例えば今目の前で煮込まれているカワハギの頭や、ミソを吸い尽くしたエビの頭や、アジの骨周りなんかをぶち込んだだけのあら汁が、大体の場合まずくなりようがないように。
だが同時に、食材のちょっとしたバランスで、沼みたいなまずいスープが出来上がるという可能性だって少しはあるのだ。
人間関係であってもそれは同じで、一見強固に見える関係性…それは家族とか恋人とか友達とかまあ色々あるが、そういった関係性がちょっとしたことであっという間に崩れてしまうことも、時としてある。
この年まで生きていれば、そんな場面には実際何度も遭遇している。
それなのにどうして俺は今目の前でグラグラ煮込まれているあら汁が、間違いなく美味い、と言い切れるのだろうか?
そこにあるのはいつも『驕り』で、「まずくなるわけない」「この関係が崩れるわけない」という思い込みが、まずいスープという破綻を作り上げる。
人間関係も料理も、いつだって本当はもっと、繊細な物なのかもしれない。俺が思うよりもずっと。
自分で料理をするようになって、この物語の言わんとしていることが(知らんけど)少しわかったような気がしている。
スープはいつでもメタファーの味

ネタバレになるかもだが、この物語の最後にはわずかな救いがあり、家族は再生へと向かうかのような形に一応収束するのであるが、そのメタファー(また使えた)として、今度は『うまいスープ』が登場するのである。
俺が作った、カワハギの頭入りの、滑稽なスープは果たしてうまくできているだろうか。
人間2人分のあら汁と、一緒に起きてきた編集長のご飯を皿に盛ってテーブルへと持っていく。
味見もしてないが、このあら汁は果たして『うまいスープ』だろうか『まずいスープ』だろうか。
でも本当に大切なのは『まずいスープ』を作ってしまった時、「これまずいね〜」と笑い合えることのような気もする。
器を持ち上げ、あら汁に箸をつける。
カワハギがおもしろい顔でこっちを見ていた。











